昭和40年02月07日 夜の御理解
今日、4時からでした、テレビで久しぶりに、歌舞伎座からの中継でお芝居を見せて頂きました。雪の日の円朝、という新作歌舞伎なんですね。円朝と言えば、名人と言われた噺家なんです。その人の事を中心にしたお芝居なんですね。今日はその山岡鉄舟て言うんですかね、との出会いのところデンシュウと言う人の、とりもちでむこう向かい島ですかね、料亭で雪見をしながら、その鉄舟と円朝が合うところです。鉄舟はぶこつな人ですから話しなんか聞いた事がない。又自分はいつも好かん。
その円朝は嫌いだと言うておるからその、デンシュウとしては、一辺名人の話しを聞いてみよ。一辺で好きになるというその気持ちで、まあ合わせる訳なんですね。まあその鉄舟来る前に色々と円朝の話し、所謂即席の話しをデンシュウが求めます。それの題を頂きたい。題を丁度雪見をしておる時ですから雪という題で話せ。3人がその花月と言うような題、雪、花、月というその題で、小話しをするわけです。
実にそのなるほど名人だと、見事なお話しなんですね。とにかく正月だから正月らしく、めでたくお話をお話を終わる。もうそこにい並ぶ人達は、もちろんのこと芸者衆7人の芸者衆がおります。7人の芸者衆まで七福人になぞらえて、その話しの中におりこむんですね。そのお話しをするところ、実に勘三郎演ずる円朝でした。デンシュウのモリタカンヤである。山岡鉄舟の光五郎。
もう芸者衆に至るまで、そのうたがのじょうですかね、それから福助それから、なんでしたかねあの人、ともえもん以前ともえもんといいよった人達の、その芸者さんです。まあ、素晴らしいお芝居でした。その素晴らしい小話しをですね、丁度遅ればせにやってまいりました鉄舟が物陰から聞いておる。さすがに名人だなと感心しておる。ね。とっさにようもようもああいうふうに、もう歌い上げるようにお話をする。
お話に聞き惚れながらもです。座席に参りましてから、その円朝に言うところです。「一つこの私が今度は、題を出す。私が所望するひとつ話しをしてくれ。」「何なりともどうぞ、題を出して下さい。」と言うんですね。ところが鉄舟が申しますことは、「その昔、昔、むかしの物語、桃太郎さんの話しをしてくれ、自分は子供の頃、ババからもう、もう毎日毎日、繰り返し繰り返し、聞いた話である。
それでもあかなかった、やはり話をせがんで聞いた。いや誰でも知っておる、その桃太郎のお話、その話を、名人円朝から聞ききたい。」とこう言う訳なんですね。円朝もそれこそびっくりいたします。誰でも知っておる話、ね。誰でも話せる話。それを名人がどう話すか所望されるままに話しを致します。その開けっ放しにしてあるその雪見の席ですね。羽織を脱ぎます。ね、汗が出てくるのです。
「むかしむかし、お爺さんとお婆さんと」でも、その桃が流れてくる情景のねきまで話しますと、又、繰り返し繰り返し、そこのところを話しますけど、もうつまって話されない。ね。一番みやすい話が、誰でも知っておる話が、こんなにも、難しいものであると言うことを、まあ、開眼するところなのですね。で、鉄舟に、「その名人とも言われるお前が、どうして話せんかと、みんな誰でも素人でも話せる話じゃないか。」と、
「お前は話を舌で話すのか、舌、口で話すのか、と、どうじゃ円朝どうか。」と言うて、たたみかけられる。もうとにかくぐうのねも出らん。一言もないわけなんですね。そして、ま、すごすごその場を帰る場面のとこ、さすがに、いわゆる名人、円朝ですね。それをごまかさない。お前の話は先程も陰で聞いたその即席の話がです、ね、なるほど名人だ。なるほど、見事だけれども、それは、お前の、話ですから、お前が、ごまかそうと思えば、どんなにでも、ごまかせる。
誰でも知っておるもの、ね、誰でも話せるもの、さあそれはごまかしは出来まいが、舌で話たんじゃ出来ん。いうなら、腹で話すいわば話をお前はしきらんというような、意味の事を申します。ま、そういう場面のお芝居を長々とですね、一幕のもので、あの演じる。実に、名人ばかりのお芝居ですから、実に見事でした。お芝居も見事でしたけれどもです。私、そのお話を、お芝居を、見せて頂きながら、感じたですね。
どんなに、例えば、これを信心で頂きましてもです。どんなに、巧者でありましても、お話しが出来ましてもです、ね。いや、お話が名人であっただけではいけないということ。ね、一言でも、ね、相手がおかげを頂き、一言でも、みんなが有り難いと感じれれるような、話が出来れる私にならんにゃいかん。私は私なりに、そんなこと考えた。ね、長々と、あぁもう2時間も、ぶっつづけに話しました。5時間もぶっつづけに、長か話したとが、名人のごと、言われる先生方があるんですね。
内容をもってるから話せという意味でしょうけれどもです。それでも問題が助かりもしなかったり有難いも感じさせ得なかったら、何時間話したって同じゃないですかね、内容に有難いものがあふれておらなければならん。溢れていなくてもです。例えば今日、私今日も午前中丁度150名からもお取り次ぎさせて頂いた。もう今日は遠方からひっきりなしだったお参りが、本当に今日は150人も私、お取り次ぎさせて頂いた。なにかこうなにか、鼻高々とするような、お取り次ぎさせて頂いた。
果たして150人【? 】 もし、山岡鉄舟に聞かれたら、本当にぐうの音も出らんような、私じゃなかったろうかと感じがするです。ね、その中に一人伊万里から参って見えた。池田さんがここでお取り次ぎを願われました。ね。親先生ここへ着かして頂いた途端におかげを頂きます。と、障子を開けさせて頂きましたとたんにです、親先生に喜んで頂けく信心もでけんのに相すまん、ただこれ一念で御座います。涙をぽろぽろ流されました。私、何にも話してないんです。どう言う様なことなんだろう。ね。
そこで、私の内容には、150人ものお取り次ぎをさせて頂いてです。150人誰にも有難い物を、与えられなくてもです。内容がないから与えられないに致しましてもです。ただ、ならここに一生懸命に私が奉仕をしておる。その姿には、やはり何かがあるということです。ね。有難い物はなくても、一生懸命修行しておると。ただ桜井先生あたりがです、ね、博多あたりから、博多からでも歩いてお参りをされる。
神様のいわば言うて下さることのままに、あんな修行をしておられる。ね、どこの別に、とりえはない。やはり桜井先生の信心のどこかにです。何か知らんけれども尊いものをゆうなら後光さすようなものをです、あの信心の姿の中から感ずるって、なら、先生の心の中に有難いものがあるやらないやら、わからないけれども、一生懸命の修行の姿の中にです。相手に私は、響くものがあるのじゃないか、私今日池田さんのお取り次ぎをさせて頂いて、それを感じた。
そういうふうな、おかげを頂かせて頂けるなら、私が一生懸命ここに御用させて頂くと、私を空しゅうして、一生懸命修行させて頂くということはです。お参りをしてくる一人一人に、それを与えられるなら御理解はいらんなぁと、言うことである。有難いことですなぁ。本当にもう考えてみりゃぁ相すまん事と思います。私は、これだけを言えば、本当に皆んなが、有難うと思うて下さる。
相すまんと思うて下さる。こんなこっちゃいかん。ぐずぐずしちゃおれん。そういうようなものをです一人一人に与えられるような、それこそ名人の先生にならなければ、本当の意味合いにおいての、に、ならなければならないなぁ。内容頂かなければいけないなぁと、言ったようなことを、私は感じた。ね、いかに、御理解が素晴らしかってもね。それで、助からなかったら何にもならんですから。
そこで私は、その有難い内容をです。皆さんに一口でも有り難いなぁと言うことが、言えて、それが有難いと相手に伝わっていくという前にです。有難いものはないでもです。神様に向かう、一生懸命の修行の姿というものがです。ね、神様に、響かんはずはない。人に、響かんはずはないなぁ。そんなことをね、今日ちょっとお芝居を見ながら感じた。 おかげ頂きました。